先日ニュピ明けに、日本に住む長男が休みを利用してバリ島へ訪れた。
長男は産まれて間もない生後3か月からアトピー性皮膚炎と診断されている。
アトピーについてはほんとうにいろいろ経験したためほかの記事でまた改めたいが、今回はアトピーで皮膚が弱いためにかかってしまっただろう皮膚感染症のため、ヌガラの総合病院に入院したことについて書こうと思う。
この記事がいつ公開できるかはわからないけど、書いている時点ではちょうど昨日退院して帰宅したばかりだ。
長男はちょうどコロナ前一年くらいこちらの学校に通っていたことがある、通っていた時は日本人も多く、いまでもこちらの学校に通い続けながら住んでいる友達が数人いる。
バリへ到着して数日マデウィで過ごしたのち、彼はデンパサールに住む友達の家へ一週間泊まりにいった。
向こうでの過ごし方といえば、サヌールの海で泳いだり、ウブドへ行きラフティングやバギーを楽しんだり、滝へ行ったり、タナロットでケチャダンスを鑑賞したりの毎日だったそうだ。
家でゆっくり休息することなく丸一週間遊びつくしたとのこと。
楽しかったようなのでそれはよかったのだが、一週間後ちょうど迎えに行ったとき、熱っぽいと訴えてきたうえ、身体の皮膚の様子がおかしい。
産まれてからずっとそばで見てきたため、なんだかいつもと様子が違うのと初めて見る状態だと感じた。
そして変な臭いもあった。
遊びっぱなしだったようなので疲れが出たんだろうととにかく家へ帰り、休ませることにした。
ところが2日たてど3日たてど症状は酷くなるばかり、熱は常に40度を行ったり来たり。
私は過去にデング熱に罹ったことがある。この時はヌガラにあるBali Med Hospitalに入院。それ以前にもかなりひどい同じような症状でぶったおれたことがあるが、そのときはビタミン剤を服用し、バリ人から聞いた『グアバジュースが風邪に効く』を信じて飲みまくり、なんとか自力で数日後回復した。
入院してデング熱と診断がおりたときに感じたことがある。
若干具合の悪くなり方が違うが、高熱といい症状の重さを考えるときっと前回のその時も蚊を介しての何かだったとはっきり感じた。
わたしの血液型はAなので、非常に蚊に好まれる。
話はちょっと逸れるが、わたしの旦那さんの血液型はB。兄弟は本人含め9人いるが聞いたところほぼみんなBだそう。聞ききってはいないが全員Bなんじゃないかと思う。見てると。。
蚊の巣窟になっている家族の家へいっても刺されるのはわたしばかり。
『蚊がっっ!。。蚊がっっ。。!』かゆいし、プーーンという音がいやで叫んでいても『ナンデ、コカチハ、ササレルノ?』『ワタシ、カ、コナイヨ』兄弟みんなそんなかんじで言う。
そんな感じだったため、滝やラフティングではたくさん蚊に刺されたことを考えると、息子が患っているのもデング熱で間違いないと思っていた。
入院したとしてもひたすら点滴のみ。デング熱にはこれといって効く薬がないため、症状が和らぐのを待つしかない。
私の時は吐き気がすごかったため、吐き気止めも処方されたが、病院へ行ってもこれといって特効薬もなく待ち過ごすだけなら家の方が空気もいいし、清潔だし、わざわざ行かなくてもいいと思っていた。
実際バリに住んでいる人でもデングに罹って自宅療養で回復した例をいくつかネットで見てたのもある。
なので、たっぷりビタミンCを摂らせながらようすを見ていた。
あとで思えばいくつかのことが重なったせいであんなひどい状態にまでなったと思う。
海、とくにサヌールの海は汚いと聞いたこと。
インドネシア産のプロテインを飲ませはじめてたこと。
ステロイドはもう何年も前にやめていたが、本人の都合でバリに来るまえ、ちょうど10日間ほど薬局で手に入る市販品の最強に強いベトネベートを、首、肩、顔に使ったとのこと。
以前少しだけ薬剤師の助手の仕事をしたことがあったため、赤文字で薬品名が書かれているものと、黒文字で書かれているものの簡単な違いは聞いたことがあった。
詳しいことまでわからなくても赤文字は劇薬ということは知ってる。
ベトネベートは劇薬。
あんなにステロイドには気を付けていたのにぃ!
でももう使ってしまったものはしょうがない。黄色い臭い膿がではじめてから気付いたのは、最高にひどい状態になっているのは、ベトネベートを塗った個所。
最強ステロイドを使ったことで皮膚の免疫がなくなったんだと思う。
ほんとうに気持ち悪い状態になりすぎたため写真はお見せ出来ないが、しまいには膿で目も開かなくなってしまった。息子は目を閉じた状態で病院に行くまでの数日を家で過ごした。
きっとアトピー性皮膚炎とデング熱が重なったためだろう、と思っていたが4日目を過ぎても熱は下がらないまま。
デングは大体長くても熱は5日までのはずなのに、、いよいよ病院を考え始めたタイミングでトイレから息子の叫び声。
『母さーんっっっ!!』自力で目が少し開いたところで自分の状態をはじめてみた息子は驚いて『もう病院行きたいから早く連れてってっっ!!』
車に乗り込んで待っていた際も幻覚か、ほんとうなのかわからない怖いものを見てしまったようで泣いたらしい。
『手がっっ!俺の手がっっ!!・・』
どんどん細くなってしまいには骨が見えたといっていた。
息子本人も熱はあれどそこまで他に症状を感じていなかったのか、
『病院は行きたくない』としばらく言っていた。
黄色い膿が出始めてからも、本人も大体自分の皮膚の状態を昔より考えるようになったのか、きっと膿が全部出切ればきれいな肌がでてくると信じていたためだ。
ところが残念なことに黄色い膿と、膿に因る異臭はどんどんすごさを増してくる。
病院の外来受付の時間はとうに過ぎていたので日本だと救急外来とでもいうのかそちらの方へ行くことにした。
何度かバリのいろいろな病院でお世話になった経験から症状の酷さと時間帯もあり、日帰りではかえって来れないことはすぐにわかった。
慣れない息子からすれば大荷物もいいとこ。
ヨガマットにバスタオル、枕、毛布、歯ブラシ、着替え、下着、などなど。なぜマット?
以前結婚する前、旦那さんがバリで一番大きいサンラー病院に1か月ほど入院してたことがある。
病室は4人部屋。
バリではというかインドネシアでは必ずだれかが付き添いで病院に泊まり込む必要がある。日本ではそのような決まりはないけど、なかにはというかほとんどの患者の家族がレジャーシートやすごい人だとベット用の分厚いマットレスまで持ち込んで泊っている。
寂しくないようにということらしい。
もしわたしが入院するんだとして、介助なくひとりでも動けるようならそっとひとりにしておいてほしいところなのだが。。
と、いうことでとにかくまぁ日帰りで帰ってこれるようならそれはそれで持ち帰ればいいわけだし、マデウィから一時間と近くもない場所なので『あとでアレ持ってくるんだった!』となるよりはいい。
最初に行ったのはBali Med Hospital.
ところが救急外来窓口は外まで人があふれており、聞くとまだ相当な時間待つとのことだった。
この病院はわたしのデングの際や、下の子の出産でもお世話になったのでなんとなく来やすい感じがしてた。
そんなわけで旦那さんのすすめでヌガラで一番大きい州立総合病院へ。
Bali Med からそう遠くはなかった。
最初はなんとなく気が乗らなかった。行ったことがなかったからだと思う。
こちらの救急外来は混んでなく、すぐに診察室へつれて行ってくれた。
いろんな患者が運び込まれてくるので息子が特別だったわけではないが、膿が体中びっしりだったためまわりはちょっと驚いているようだった。
身体にくっつくので半ズボンの上にはなにも着用せず、大きなバスタオル1枚だけ頭からかぶせてきた。
無中できたけど実は心配してることがほかにもあった。
わたしは何度かバリで病院にかかっているが大抵日本人の通訳さんを介して診察を受けてきた。
出産のときは日本人のいない病院ではあったが、出産は初めてではなかったし、旦那さんも付き添いだったので安心して望めた。
ところがいまは2歳の子がいる。旦那さんの両親はすでに亡くなっている。
義理の兄弟家族はたくさんいるが、いまはイスラム教徒にとって大事なラマダンの断食期間。
以前義理のお姉さんが、断食のときに家に来た孫がなかなか手のかかるいたずらっ子でイライラをわたしに言ってきたことがある。
『コカチー!ワタシダンジキシナキャイケナイノニ!デキナイヨッッ!ハッッ!!ハッッ!ぺっっ!』
こんな具合である。
断食中は怒りをあらわにしてはいけないそうだ。
いたずら盛りの孫を怒って注意したいけどできない。こんなもやもやがお姉さんをイライラさせていた。
最後の『ぺっっ!』というのは、唾を飲み込むこともNGなので、ぺっ!ぺっ!と出すからである。
最初『唾吐き』に関して知らなかったとき、『家はきれいじゃないとやだよ!』といいながらいつもきれいにほうきで履いてるのに唾吐くのはいいの~!?!?
と、おかしくてぷっと笑ってしまったけど。唾を出す理由をあとから知ってなっとくした。
わたしがぷっと笑ったところで怒る人たちじゃなくみんな寛容だから家族はみんな好きだ。
ちなみに唾はもちろん庭に吐く。でもそれをしながらほうきでごみを掃く。
つぎにやはりうちの子をものすごく可愛がってくれてる姪がいる。
いつまで面倒見ても飽き足らない様子でほんとうに可愛がってくれるしっかりした子。
彼女はもう学校を卒業してるし、きっとお願いすれば面倒をみてくれるだろう。
でもちょうど息子が病院行く前の日にその子のお姉さんがバイク事故に遭遇したという。
大事故ではなかったものの、その姉にもうちの子と同じ年の子がいて、きっとその子をみなきゃいけないはず。
ましてややっぱり断食期間中。
誰にもお願いできないということは、パパが面倒みるしかない。
基本何もできない。
お風呂、おむつ、あそび、なにからなにまですべてわたし。
まったくの役立たずだ。役立たずの話しはまたべつで書こう。
ということは、息子の件は旦那にはなにも頼れないのでわたしがひとりで頑張るしかない。
泊まるのはなんとかがまんすればいけるけど、病院とのやりとりはすべてひとりでできるのだろうか??
息子が助かるために頑張るしかない。。
いま退院してから思うことは、今回はわたしのインドネシア語学力でも大丈夫だったということ。
わたしが外国人だったためにみな簡単なことばで伝えてくれていたのかもしれないけど、今回のこれのおかげでインドネシアでやっていく自信も少しはついた。
ビザのための入国管理局や銀行の手続きなどはいつもちょっとだけ難しく感じる。
病院もいままではだいぶ消極的だったけど、つぎからは翻訳なしで頑張ってみようと思う。
今は翻訳アプリもあるし、どんな薬かどんな治療かもじぶんでネットで調べることができるからこころづよい。
ここで朗報です。
なんと、こんな田舎の私立ではない州立病院、それも患者は地元の人だけのような病院に日本語を話せる看護師?を二人も見つけてしまいました。正直すごく感動してしまいました。
ひとりは救急外来で立ち会ってくれた男性、救急外来室のカウンター向こうで事務的なことをしていたし、白衣ではなかったのでこの人は看護師ではなかったのかもしれない。
非常にゆっくりだけど医療用語はときに難しい日本語も交えながら説明してくれました。
わたしがインドネシア語をわかる程度で使っても、インドネシア語では返そうとせず、一生懸命日本語を思い出しながら半ば意地になって日本語を頑張ってくれてました。
まわりはどローカルな空気だったので、寄り添ってくれるこの気持ちがほんとうにうれしかったです。
心強かった。
まさか本当にこんな場所で日本語を聞けると思っていませんでした。
もしよければ名前を聞いてわたしのブログで紹介したいと入院中思ってましたが、その後は運よく会えることもなく。。
二人目の人は女性。名前も教えてもらい、写真を載せてもだいじょうぶと言ってくれました。
やはり時間も時間、病状もひどいため入院になり、受付を済ませ二人部屋を選びました。
つぎに続きます。。