バリ島マデウィに住む女子の雑記ブログ

いつも波乱含みで周りと同じように生きられない女子の体験エピソード

#16 【長文】低線量被ばく症状・・引っ越し・

外食をしなくなった、付き合いを減らしていった、仲の良い友達には理由を話し気になる食材に自分は手を付けないことを了承してもらったうえでお誘いにのったことは何度もある。家に招かれたり泊まったりの時には友達はわたしの心配事を気にかけてくれ、それでも遊びに来てと言ってくれ、泊りにいったこともある。

子どもの通う小学校では気にしてない親が多かったが、中には放射能のことをよく知っていて気にしてる人もいた。子どもは小学校を卒業したのち日本から出して、姉家族の住むニュージーランドへ留学させたいと言ってる人もいた。その人の姉もやはり地震後東京の実家へ帰ってきても放射能を恐れて『怖いよ、怖いよ』といってあまり外に出なかったそうだ。

放射能は見えない、臭わない、だから何も知ってなければ怖さを感じない。チェルノブイリ原発事故後、人々の身体に細胞レベルで起きた事、奇形で生まれてきた赤ちゃんたち、このフィルムをなんども観た。怖かった。チェルノブイリリングと言われる甲状腺手術の跡、フランスのドキュメンタリーで痛みに堪えて取材を受ける青少年たちを見ると辛そうで胸が痛んだ。何もわからないまま順番に並び被ばく度合いの検査を受ける子供たち。

ガイガーカウンターを持ち歩くようになった。放射能測定機。直後に福島の子たちが付けてたガラスバッチと同じだ。電車の中や商店街、駅の構内。人の多い場所。でもあれ本当に正しく計測されていたのだろうか?中にはそのポイントごとに設置されてる測定機の数値は低く操作されてるという記事も見た。

複数ブレンド米のような曖昧な表示はおそらく混入されてると思ったため、安くても買わなくなった。その時期、風評被害と言われていた影響で多くのその付近の産地のものが売れ残りあふれていたため。回転すしにも怖くて行かなくなった。大手チェーン店は大体そういった安く大量に手に入るものを使っているだろう。大手であれば大手ほどいまもわたしは怖い。モ〇バーガーやサ〇ゼリア、あちこちで多いけど『○○産使用』なんて、逆手を取って魅惑的にみせ客を引き付けるやりかたしていいんだろうか?。いつも上手いなとおもう。だから逆に騙されない。やたら上手い売り方してると『これはなにかあるな』と感じる。

テレビなどでは絶対やらない分、とにかく今の体調不良が普通じゃないことに早くみんなに気付いてほしいといつも願っている。人に言われるよりも自分で気付くのが一番スッと入ってくる。

生きてさえいれば仕事変わっても、住む場所変わってもなんとかなる。わたしがこんなに数年間友達たちに時には悩んで口をつむんで、また時にはやっぱり言わなきゃと言ったり、でもやっぱり空振りに終わったり、我慢はするものの明るく元気なわたしの中の正義がでもやっぱり言わなきゃだめよ。とちょこちょこ顔を出す。

サ〇ゼリアが好きという友達にあんまり行くのはやめた方がいいと伝えたが、全く気にしていないようだった。とても仲が良く大好きな親子。その子の家ではコンビニかスーパーで買った氷を使ってた。『自由に使ってね』といってくれてたので製造所を見たけど阿武隈川付近の工場だった。言い過ぎても良くないと思ってたけど、その子の娘は体調不良の日が多く、1か月のうち学校へ行けない日の方が多いともいってたため、『この氷はやめた方がいい、作りなよ』と言ったけど『コカッチャンに言われて気を付けなきゃと分かってるんだけどやっぱり手軽だから買っちゃうんだよね』と言っていた。その友達は昔はかなりの健康体。身体を動かすことが好きだったのに、今は体調不良、めまいで動けない日があるという。『今日は朝めまいおきなかったから遊べるよ~~』といって元気な顔見せられると好きすぎるから悲しくなる。

みんなわたしと同世代というのもあって、決まって『更年期障害が早めに来ちゃったみたい』といってる。気になったのはわたしの知人まで含めた友達の中だけで3人も緑内障と診断されている人がいる。しかもみんな同世代。まだ40代。。緑内障って、、。

みんなあまり深刻になっているようではなかった。『進行を遅める目薬を毎日点せば大丈夫だから』と簡単そうに言う。えっっ、緑内障って最後は失明してしまう大変な病気なのにっっ?まだ40代なのに・・?

多少遺伝はあるかもしれないがたった1人の人間の周りにこんなにもふつういるだろうか?・・これは被ばく症状ではないの・・?

物忘れが激しいと言ってる友達もいた。日本に帰って少し一緒に過ごしたがほんとにそんな感じだった。家の中が散らかっている。『えっっ!〇〇ちゃんこんなかんじだったっけっっ?!!』『もっときちんとしてたイメージなんだけどっ!』

仕事が忙しいにしても頑張って手に入れたマイホーム。びっくりするほど散らかったままだった。。すると、『最近片付けられなくなってきちゃって、』と、可愛らしく返ってきた。記憶力の低下だと思う。

わたしも2度目の出産後、体力や身体の節々だいぶ弱くなったけどみんなの症状ほどじゃない。わたしのことをいつも気遣ってくれる優しい子たち。そしてその子供たち。。

好きな人たちには日本へ帰った時いつも元気で迎え入れてほしいからわたしも上手く伝えようと真剣なんだけど、みんなうまく伝わらない。

人間が体調不良になるのと同じ、家畜たちも長年体調不良で苦しみ続けてるんじゃないかと思う。草を食んでるその草も。放射性物質は壊れた原発から今も出続けてる、雨の時は大気中の放射性物質が大地にしみ込む。なので遠くまでは飛ばない。それを家畜は食んでる。洗濯物は部屋の中に干していた。風が強い日はよく飛ぶので注意してた。原産地の表示が曖昧だとスーパーの売り場から携帯でカスタマーセンターに問い合わせしていた。そんな生活にかなり疲れ始めていた。

マスク、花粉防止眼鏡(放射性物質は粘膜に付着しやすいので眼球を守るため外出時はけ着用してた)、食品のルーツ産地調べ、付き合いを断る(居酒屋など行くと何を出されてるのか分らないため付き合いそのものを断っていた、安い居酒屋などでは産地表示はあっても日によって変わることも考えられるため表示は信じてない、自分も結構いろいろな飲食店で働いたけどどこもいい加減なものだ)、外を歩いた靴はしょっちゅう洗い古くなったら捨てた(物は大事にするため捨てることはめったにない)、子どもに与えるお菓子も大丈夫そうなものしか与えてなかった。やってたことはほかにもたくさんある。水道水が怖くなり放射性物質が目に見えるようだった。

花粉も飛ばない季節の晴れた天気のいい日にマスクに眼鏡、周りからはだいぶおかしな目で見られてた。わたしのキャラを知る人たちのみ笑って終わった。そう、いつもここで終わってしまう。どんなにこっちが真剣になろうとも。。

日本を分断したとき、東京方面に来るものはやはり神奈川県や東北、北海道方面の工場で作られたものが多い。大手の食品製造会社は日本全国あちこちにあるが、特別なご当地食材でない限り、大手会社製造のもので関西方面のものを探すのは大変なことだった。自分でも調べ、大丈夫なものと駄目なものをリストにし、なるべく迷わず買えるようにいつも持ち歩いていた。基本的に買い物はすごく時間のかかるタイプだが、この時のスーパーの買い物はいつも以上で1時間以上売り場で悩んでいた。

清涼飲料水、わたしはほぼ飲まないが、息子は好き。調べては『あれだめ、これもだめ』とあの時は口に入れるものをかなり制限していたので息子はいつも『えーーー、これもだめなの~~』といっていた。

それらのこと全部ずっと続けるなんて無理なのでは?・・住む場所を変えるしかない・・?変えた方が不安も減るかも・・・

こう思ったときは気づき始めてもうすでに一年以上経っていた。心して母に相談する。なぜならわたしが働いていた会社は母も以前働いていた、創業は祖父で今は叔父の会社だ。母子家庭で長野のリゾート施設でパートとして働くのではやっていけないと、母からも叔父さんに一言言っといてと言い、わたしから働かせてほしいとお願いした。かなり忙しかったが安定した会社だった。いつも『きっと死ぬまでここで働くことになるんだろう』とおもって働いていた。

ローンを組んでマンションを買ってまだ2年ほどだった。だから母に言うにはかなり勇気がいった。でも予想通り母は激怒。

『どーすんのよ長野から越してきて家まで買って、頭下げてまで会社入れてもらって!!』『無理よ、いまさら全部やめて引越しなんて出来るわけないっっ!』そうだろうな、そうくるとは思っていた。わたしだってその先までなにも考えてない。でも仕事から夜帰ってから毎日、あまりの脱力感と疲れで立てなくて部屋まで行くのもしんどくて玄関で寝てしまい返事も出来ないほどだったそれもすべて身体の不調は改善されるはずだという自信だけはあった。

『わたしがこのまま、、今はこれくらいで済んでるけど体感でこのままいくと癌になりそうな気がする。』と言った。ほんとにそんな感じがあった。

むかしから意見が食い違っても必ず最後は母の意見にしょうがなく従う。母はわたしの様に直感型ではなく、物凄い理論型。学校の先生の様。直感で感じただけなので理論的に返されると言い返せない。でも体調不良になってからのただ一つだけの心配事は『わたしがいなくなったら息子はどーなるのか・・』それだけだった。

その時点で約40歳。べつに明るい未来などは全く期待していなかった。ましてやネット上では陰に潜む暗い情報ばかりだった。生き残れるか、というよりも、子どものためにこの人生最大の勝負時を、周りの意見にとらわれず、ぶっちぎれるのかだった。今でも思うのはあの時は何かが私に乗り移ってたような気がする。小さい時から何か言うごとに母に意見をねじり潰されてたわたしがあんなに長期戦で頑張れたのは初めてのことで、そうとしか思えない。意見対立で母に一度も勝ったことはなかった。

あの移住の一件でわたしはがらりと変わった。前とは別人なくらい強くなり、言い返すようになった。物の考え方も大きく変わった。周りからもコカチ変わったねぇと言われる。むかしのきゃぴきゃぴしたわたしはいなくなってしまった。

この放射能の一件でまじになってしまったから。

ところが最終的には母も移住して良かった、正解だったと言ってる。弟から聞いた話、『それに初めに気付いたのはわたし(母)で、ほにゃらら~』といっていたそうだ。母の中では母の手柄。でも全然それでいい。

 

その間もわたしは『これ見てっ!』時間があるときにわたしの見た記事たちを見るように言った。そしてある時から母の考えも変わっていった。

わたしは小さい時からいろいろなものに過敏で、着るものの素材や、金属の擦れる音、その他いろいろなものに敏感で身体が拒否ることが多かった。対して母はかなりの健康体、レントゲンや原発問題、環境問題は気にするのに、着るものの素材もだが小柄なくせに食べ物は何でもよく食べ、お酒も好きで何にも気にしないわたしと全く逆のタイプだった。だから体感でもまったくなにも感じない、身体の異変もないようだった、だから分からなくてもしょうがないんだが。わたしは敏感すぎる体質のようだ。ここバリにいても身体が鉛のように重たく感じることがある。とくに、長らく日本にいて帰ってきたときは顕著。日本の方が体は軽い。

放射性物質が飛び交う空気のなかにいると穴という穴、とくに耳、から体全体をプレスされて圧縮されてる気分だが、そうでない日本の場所では、バリにいるときよりも足取りも軽いし、昼間に眠たくなることもない。

わたしが今の状況と東京はやばいよということを伝えてから、母も昼間パソコンで調べていたようだ。ほんとうにこの時パソコンを持っててよかった。スマホも持っていなかったしまだガラケー。ずっとテレビしか見ていなかったら分からなかった。それにパソコンは画面が広いのでいろんなものが目に入ってきやすい。

まず初めにパソコンで調べ始めたのか『首痛い』だった。それからどんどん『物落とす』や『心臓 チクチク』『耳の奥 コロコロ』『原因不明』など。とにかく気になったキーワードを気になったままどんどん打ち込んでいった。消えてる記事が相当多く、消されてるのか今は放射能まで絶対たどり着けないと思う。でもこの時期2013年、2014年はこう調べるだけでたくさん出てきた。そしていとも簡単に放射能までたどり着けた。あれから10年経ってるし、ネットの情報も増えてる。あるにはあるけど埋もれてしまってるかもしれない。そしてなかなか人の目には触れることがない。ためになる情報を書いてくれてる人がいっぱいいた。みんな同じ不安な気持ちだったと思う。

原発問題、チェルノブイリ爆発事故などの本もそれまでに読んでた為ため詳しかったのもあるんだろう。母も突然様子が変わった。これはほんとうにやばいかもねとなった。

東京は広い盆地、福島からたったの300キロしか離れてない。風で流れた物質は山ではぶつかり、盆地に溜まる。停滞する。歩くのは遠いが風なんてビューーンだ。

ただ今住んでるところを離れるにはいろんなものを捨てなければならなかった。ましてや東京。一番大変だったのはやっぱり仕事。大勢いる社員はみな驚いた。なぜならわたしは外から来た社員ではなく身内。一生ここで働き続けるものと思ってた同僚は、なぜこんなに安定しててなおかつ身内で将来心配ない、しかも割とお給料もよく、、冗談で上場会社だと言ってる人もいた、若い社員の多い活気のある職場、以前は残業も多くブラック企業だの言ってる人も多かったが改善されてからは社員はやりがいを感じいつも会社を誇りに思っていた。それをいつもひしひし感じていた。みんなプライドが高くも感じた。でもわたしも同じくそこで働けてることを幸せと思っていた。

それほどの職場を辞めるのはかなりの勇気がいった。どう説明するべきか悩んだ。あいまいに言ったけど疑うのは当然でなかにはしつこく聞いてきた人もいた。それが理由だと話すと、小さい子供を持つ同僚の男性は納得してた。『実は俺も奥さんとときどき話す、新聞見てやばいよなって。。大変だと思うけど正解だと思うよ』と言ってくれた人もいた。いまでも少し残念に思うのはその仕事を手放したこと。超大変だったけどやりがいがあって楽しかったし、わたしに向いてた。でも母もそれに気付いてからは2人のスピードは驚くほど速かった。。

ほんとにそれからはパンパンパンという感じ。一日も休みなくそれぞれ調べて動いた。母は登山が趣味だったので日本地図を広げ、どこの土地に行くかを調べた。北海道、沖縄、、。母からは『長野じゃだめなの?』と言われた。たしかに長野でもいいのかなと思った。

結婚して東京に住んでた友達が妊娠してから長野の故郷に戻った。旦那さんと相談し、やはり原発事故を機に子供が心配だからということだった。子どもは影響を受けやすい。でも地図的に見ると長野は福島にまだまだ近い。あの時最初は『長野でもよかったかな』とも思っていたが、数年経ってから『やっぱり岡山まで来てよかったのかもしれない』と思った。なぜならば3年ほど前、長野に住む母の友人から母に連絡があり、共通の友人が亡くなったとの話だったが、続けてその友人は『最近周りでどんどん人が亡くなってて怖い』と言っていたそう。

長野は山で囲まれているから影響は少ないと考えるが、最終的には食べ物なんだと思う。産地、工場、どこの水を使って製造したものなのか。などを常に気にしていないといとも簡単に体に取り込んでしまう。日本の隅々までものが流通している。一度取り込んだ放射性物質は外に出さない限り身体のなかから放射能を発し続ける。細胞を傷つける。痛んだ個所から悪い細胞が増殖するそんな流れだとおもう。

もうこの際わたしは学者でなし、なんでもよい、体調不良が酷すぎてとにかくここから逃げたいという想いだった。直感を一番信じた。それまで怖い経験はたくさんしてきたものの今までとは全く違う種類の怖いだった。そのころネット上では『放射能移住』という記事をよく目にしたし、支援する団体や地区もたくさん目にした。北海道も考えたが冬は長いし寒いため光熱費は高すぎる。沖縄に引っ越した人もたくさんいたが、まだ弟家族や親戚や長野の家のことなど考えると遠すぎる。最終的に候補地となったのは滋賀県と岡山県。どちらも新幹線で行けるので何かあった際のアクセスの面から。

最初は滋賀県を下見に行った。母は京都からも近いし山に囲まれた琵琶湖が気に入ったようだ。でもまたしてもわたし。降り立ってから少し歩いたけどが地場なのか?なにか変な感じがし頭もグワングワンする。わたしには合わないからとの理由で不動産会社に見学も申し込み何件か回ってお手ごろだったにも関わらず滋賀県はなしということになった。そして岡山県。最初に行ったのは倉敷。

岡山県は曇りが多く空が低いと言われていた。人もそっけない人が多いとか、遊ぶところがないなど一般的な意見としてはネガティブなことばかり書かれていた。でも放射能をきっかけに移住してる人が多かったこと、支援団体があったこと、そして東京で開業医として病院をやっていた医師が原発事故後の放射能をきっかけに地元岡山に戻り、その後被ばくに関する患者をたくさん診ていたことが大きかった。わたしは行ったことがないが東京方面から来る患者も多く、予約が取れないというのはネットで見た。三田医院。三田医師。

家もローンを残したまま不動産屋に売り渡し、気にし過ぎだったかもしれないが放射能で汚染されてしまったように感じるモノたちは処分し、わずかな荷物だけ持ってほんとうにササっと引っ越した。